その日、町の富豪の車は、「人間」数人と「奴隷」数十人を乗せて、町外れの炭鉱へと向かっていた。
狭い荷台には、何人もの男が詰められていた。年齢と肌の色は様々だったが、皆一様にくたびれた顔をし、くたびれた服を着ていた。檻のようなその荷台には小さな窓が一つあるだけで、換気もろくに出来ず、衛生状態は最悪だった。手枷をはめられた奴隷達は抵抗する気力も失く、汚れた荷台の壁や床に臥していた。
ふと、車がガスを吐くのをやめた。一人の少年奴隷が鉄格子から外を覗くと、人だかりができていた。丸々太った口髭の男が、みすぼらしい人々――いや、奴隷達を引き連れて何やらしゃべっている。
――奴隷の取引か。そう呟いて、その少年は腰を下ろした。
黴臭い荷台にも、人身売買を見るのにも、もう、慣れてしまった。
資源を巡り始まった戦争は、もう十年近く続いている。戦争で負けた国の人々は、生け捕られ、奴隷として売られた。その多くが過酷な環境での労働生活を強いられていたのだった。
象牙の髪の少年ナタリーも、敗戦国出身の奴隷であった。今年十六になるその少年は、この屋敷に連れてこられて二年目だった。そんな昔のことを考えつつ、少年は汚くなった象牙色の頭を掻いた。
と、途端、外から話し声が聞こえ、荷台の扉が開いた。そこには家主と使用人、――そして、少年と同い年程の、小柄な黒髪の少年が立っていた。
使用人が彼を蹴り飛ばし、家主が「お仲間だ」と一言いうと、荷台の扉が閉められた。
新しい奴隷らしい。先程の市場で買われたのだろう。しかし、奴隷達は他人に構う気力もなく、誰一人彼に見向きしなかった。――ただ一人、象牙の髪の少年を除いては。
ナタリーは、黒髪の彼を眺めた。つやのある美しい黒髪と、それと同じ黒色の瞳。しかしその黒は濁ってはおらず、透き通った美しい色であった。ナタリーはそのような色を初めて見た。少し幼く見えるが整ったその顔立ちは、いわゆる美少年というやつである。
その町外れの鉱山では、富豪に飼われている奴隷達が働いていた。
抗う気力すら失った彼らは、呻き声もあげずに、ただ機械のように仕事を熟している。誰かが縊死を遂げても空気の変わらないような、墓場のような現場であった。
ただ、そんな彼らの中、ナタリー少年だけは違っていた。その眼は美しいものを見つめるように輝き、表情には僅かだが明るさが窺える。
その視線の先にいるのは、黒髪の少年だった。
彼の周りは、世界が違うというのだろうか。この泥に塗れた炭坑には不似合い過ぎる、美しいものだった。ナタリーは、気がつけばいつも黒髪の彼を眺めていた。それを幾日も繰り返すうちに、ナタリーは黒髪の少年の美しさに完全に魅了されていた。
とある日、彼は黒髪の少年に声をかけることにした。肩に手を置かれた黒髪の彼は、怪訝そうな顔でこちらを向いた。
「……なあ、お前、名前は? 俺は、ナタっていうんだ。」と、ナタリーは言った。黒髪の少年は、少し考えてから、「テフンだ。……テンでいい」と答えた。女のような顔に似合わず低い、テノールの声だった。
「何さぼってんだ!」
怒号が飛んだ。話しているのが使用人に見つかったのだ。ナタリーは背中に鞭を受け、倒れ込んだ。彼が顔を上げると、黒髪の少年テフンはこちらを一瞥もせずに、石炭をリヤカーに積んでいた。ナタリーは鞭を打たれた背中をさすりつつも、黒髪の彼と言葉を交わせたことに喜びを感じていた。
その日の夜のことである。
奴隷達は、狭い石畳の牢屋でいつもどおりに寝かされていた。小さな格子窓からは青白い月が見える。
と、物音がし、ナタリーは目を覚ました。何か、動く影が見える。――そこにいたのは、パンを齧るテフン少年の姿だった。
「何してるんだ!」
ナタリーは怒号をあげた。う、と奴隷が呻いたので、起こさないように彼は声を潜めて言った。
「それは、他人の食糧だろう? 盗み食いするなんて……」
この屋敷の奴隷には、二日に一度だけ、食糧が支給されている。奴隷達は、配られたパンを二日間かけて大事に食べているのだった。それを奪うということは、即ち彼らの生存率を奪うということである。テフンは、
「こんな少量で一人分になるか? 大勢で少ない栄養をとるより、一人がちゃんと食った方が確実に生き残れるだろう?」
と言ってパン屑の付いた指を舐めた。
「……自分が生き延びるためなら、他人が死んでもいいのか?」
ナタリーは声をしぼり出して尋ねたが、テフンは何も答えずに、鼻で笑った。ナタリー少年も、それ以上問い詰めることが出来ず、そのまま眠りについた。
誰かの怒鳴る声で、ナタリー少年は目を覚ました。
「リーダー!」
そう呼ばれ、彼は身を起こした。正義感の強かった彼は、周りの若い奴隷達から慕われ、リーダーと呼ばれていたのだった。
パンがなくなった、と判りきった説明をされたナタリーは、ちらりと黒髪の少年の方を見た。彼はまだ半分寝ているようで、眠そうな目をこすっていた。
「誰だ、こんなことしたやつは!」奴隷の一人が叫んだ。
ここの牢屋で暮らしている奴隷達とナタリーは、共に、どうにか全員で生き延びよう、と、互いに助けあって生きていた。だからこそ、裏切りは許されないことであった。 落ち着け、とナタリーが彼を宥めた。ぴりぴりとした空気の中、黒髪の少年が口を開いた。
「……そいつが、やっていました」
そう言って彼が指差したのは、――ナタリーであった。
「な、テン、お前……」
予想だにしなかったテフンの言葉に、ナタリーは唖然とした。 奴隷達の視線が一気にナタリーに集まる。テフン以外のみな、驚きを隠せなかった。
「ナタ、ほんとに、あんたがやったのか?」
奴隷の一人がナタリーに尋ねた。しかしナタリー少年は、テフンに嘘を吐かれたショックから、言葉を発せないどころか首を振ることすら出来なかった。
「結局あんたも、自分がかわいいんだな」
「俺達が勝手に買い被ってたわけだ」
奴隷達はそう言うと、ナタリーとテフンを置いて炭鉱へと出ていった。
牢屋に取り残された二人の少年は、互いに口を噤んだままだった。
その盗み食いの事件から一ヵ月程が経っていた。
味方を失くしたナタリー少年は、自分を裏切った筈の黒髪の少年と共に日々を過ごしていた。黒髪の少年テフンもまた、象牙の髪の彼と同じように、傍にいる相手がいなかったからである。
あの日以降も、黒髪の少年は幾度も盗みを繰り返したり、労働中の罪を他人になすりつけたりと、自分を護るために他を散々傷つけたが故、味方がいなかったのだ。その度にナタリーは反射的に彼を庇い、そしてまた味方を減らしていくのだった。
ナタリー少年は、美しい黒髪の彼の醜さを知っていた。しかし、彼がどれだけ醜い行いを働いても、ナタリーは何故か黒髪の少年から離れられなかった。その黒い瞳は、何を映すが故にそのような色をしているのか……。ナタリーは、そんなことをテフンに尋ねてみたくなるのだった。
その日、家主の機嫌がやけに悪かった。噂によると、工事の経営が上手くいっていないらしい。それでわざわざ炭鉱にまで赴き、奴隷達に八つ当たりしているのだった。使用人達も家主の暴走振りに触発されたのか、いつもより振るう鞭が荒かった。使用人達は、奴隷の誰かが何かしら失敗をする度、鞭を振るい、罵声を浴びせた。
もともと瀕死だった奴隷達は、たいてい一発の鞭で地に臥せ、その後起き上がることはなかった。ナタリーの牢の若い奴隷達は、次々と倒れていく同胞達を見て、鞭の恐怖に怯えながら細々と作業をしていた。
突然、何かが崩れる音がした。ナタリーが驚いて振り返ると、鉱石を積んだリヤカーがひっくり返っていた。傍に、一人の奴隷が倒れている。ナタリーが駆け寄ろうとするより早く、何か破裂音のような音が響いた。家主が奴隷を撃った、銃声だった。
誰のかもわからない悲鳴と共に、奴隷の脚が赤く染まっていった。家主が銃を鞭に持ち替え、怒鳴りながらそれを振り回した。
「奴隷のくせに、仕事もまともに熟せないのか! てめえらは抑も生きる価値すらねえんだよ! 雇ってもらってんのに、なんでそれすら出来ないんだ、この、奴隷が!」
そこまで言うと彼は再び銃を取り出し、――その奴隷の頭を撃ち抜いた。視界が鮮血に染まる。これには、いつも無気力な奴隷達もどよめいた。
肩で息をしながら、家主がゆっくりと振り返る。そこには、テフン少年がいた。
逃げろ、とナタリーは叫ぼうとしたが、声が出ない。テフンは、澄んだ、しかし何か力のある黒い瞳で家主を見つめている。
「……なんだ、その目は!」
家主が怒鳴り、テフンの頭を蹴り飛ばした。
「テンっ……!」
ナタリーは、声にならない声で叫んだ。彼が、テンが、殺されてしまう。
すると、ゆっくりと、テフンが身を起こした。そして、家主に向かって、――頭を下げた。地面に手をついて、顔を地面にうずめて。
「命だけは、見逃してください」
テフンは臥せたまま、そう言った。その光景に、その場の全員が息をのんだ。
――醜い。ナタリーは、テフンに対して初めてそのような感情を抱いた。生きるためなら、他人を虐げるような下衆にも頭を下げる。醜い。生への執着。
「忌々しい! 奴隷が!」
家主が叫びながら、テフンの背中を鞭で打った。テフンの叫び声が響く。
「……何を見ている、働け!」
使用人の一喝に、全員が目を逸らして自分の仕事に取り掛かった。ナタリーは、ただテフンを見つめていることしか出来なかった。
テフン少年が、ふらふらとした足取りで牢に入っていった。そのあとを、ナタリーが追っていく。
「テン、……大丈夫か?」
ナタリーが言った。石畳に臥せたテフンの背中は服が裂け、傷と血に塗れた肌が露になっている。荒く息をするテフンに、ナタリーは声をかけた。
「お前は、なんでそうまでして生きたいんだ?」
ナタリーは続けた。自らを貶めても、人間としてでなくても、それでも生きたいというのか? 周りも自分も犠牲にしてまで、どうして生きる?
そう言った少年は、目に涙を浮かべていた。いっそのこと、死んだら彼は楽になれるだろうか……。ナタリーは、生に執着する醜い美少年を抱き締めた。
「……どんなことであれ、目的は目的だ」
黒髪の少年は小さく呟いた。
「死んだら、そこで終わる。死人に目的は果たせない」
――だから、俺はどうやっても生きる。そう言って彼は自嘲するように笑った。くっくっと嘲笑うテフン少年に、ナタリー少年は問いかけた。
「……そうまでして、果たしたい目的って?」
その問いに、薄く開いた彼の唇からは返事は零れなかった。
ここのところ、労働が厳しく、奴隷達の多少なりの自由時間はかなり減らされていた。かなりどころか、殆ど無いに等しかった。そのため、最近はナタリー少年とテフン少年も口をきくことがなかった。勿論、時間が無いだけでなく、れっきとした別の理由もあったのだが。兎角色々なことが絡み合って、牢屋で一緒にいてもナタリーは黒髪の彼に声をかけられないままであったのだ。
ナタリーは、鉄格子の隙間から空を眺めた。凍りつくような夜空に、銀瑠璃の星が鏤められている。隣では、テフンが丸くなって眠っていた。線の細い背中が規則正しく上下している。――今起こしたら、怒るだろうか。ナタリーは、なんとなく、星空を見ながら彼と話がしたかったのだ。
そのとき、すうと光が空を駈けた。流れ星である。とっさにナタリーは指を組み、天に向かって祈った。――テンをここから出してやってください。美しい彼を、こんな汚い場所で死なせないでください……。そう祈り終えて、彼ははっとした。自分でも、そんなことを祈ったのが意外だった。自分もそうなのか。黒髪の彼が生に執着するように、自分もまたその彼に執着しているのか。人は何かに依存する。テンの場合、その対象が、「生きること」であるのだ。そしてその執着の仕方が異常なだけで、ただ生きたいと願う一人の人間にすぎないのだ。
彼は生きること自体に依存して生きている。そして自分は、その彼を追って生きてきた。あの薄暗い檻の中で見た光は、彼であったから。
ナタリーはテフンの肩を掴み、軽く揺すった。彼の黒い髪が、さらりと揺れる。無理矢理起こされた彼は、ナタリーの方を睨みつける様にして尋ねた。
「……なんだ」
テフンの剣幕に怯みつつも、ナタリーは、「いや、お前の『目的』に……俺も協力したいな、って」と言った。「そうか」無愛想にそれだけ返して、テフンは眠ってしまった。どうやら本気で疲れているらしい。ナタリーは、なんとなく先程の願い事が叶うような気がした。
窓から見える、空が緋い。
幻想的かつ凄惨なその光景に、ナタリーは跳ね起きた。牢屋の中は彼を残して空っぽになっていた。なのに、辺りがやけに騒がしい。牢屋の錠が壊されていた。手枷も鎖も外れている。
逃げられる……かもしれない。
しかし、テフン少年がいない。いや、それ以前に今これはどういった状況なのだろう。悲鳴と叫び声、馬の嘶きが聞こえる。建物は破壊され焼きつくされ、骨組みが見えている。たぶん、まだそのあたりに火事があるのだろう。地下牢は冬にも関わらず蒸し暑かった。
ナタリーは牢屋を飛び出し、辺りを見回した。隣の牢に、まだ一人老人が残っている。
「じいさん、あんた逃げなくていいのか」
老人はかすれ声で答えた。
「……ああ、わしのことか? わしはもう逃げる気力もありゃあせん……こんな老いぼれ、生き延びてもお先が困るじゃろうに」
そう言うと、その老人は高らかに笑った。
「……そもそも、これは何の騒ぎなんだ」
ナタリーは老人に尋ねた。
「ああ、南の方から奴隷解放部隊が来たとか何とか言うておった。ここの家主も殺されるじゃろうなあ」
――奴隷解放部隊。一ヵ月程前、そんな噂を耳にした気がする。確か、軍隊を率いて、あちこちにいるこのような奴隷達を富豪から逃がしているという……。その部隊に狙われた富豪共の屋敷は跡型も残らない――その軍が、ここの屋敷に来たというのだ。俺ら奴隷を解放しに!
「お前さん、ナタというのじゃろう?」
老人がナタリーに尋ねた。その言葉にナタリーは思わず振り返った。
「……誰から聞いた?」
「お前さんへの預かりものがあるんじゃが」
そう言って老人が差し出したのは、何かが入った麻の袋だった。ナタリーはそれをひったくるようにして受け取ると、袋の中を覗いた。――花の種だった。
「黒い髪の、あんたと同い年ぐらいの子がなぁ、あんたが来たら渡してくれ……と、それだけ言っておった」
そう言うと老人は二、三度咳払いをして笑った。
「……じいさん、ありがとう」
ナタリーはそう言うと、種をひとつ、老人の方に投げて走りだした。
「おお、お前さんも、達者でな」そういった後、うしろで瓦礫の崩れる音がした。たぶん、今の老人はもう……。ナタリーは唇を噛み締めると、麻の袋を抱えて走った。
ナタリーには、その袋を渡された意味がなんとなくだがわかっていた。だけど、納得がいかなかった。あれだけテフン少年が執着していたものを、そんな大切なものを自分に渡されることが。石畳の階段を駆け登り、必死でテフンを探した。
「テン、いるんだろう! 答えろ!」
業火の中、ナタリーは必死に叫んだ。しかし、炎が燃える勢いでその声はかき消されてしまう。
ふいに、腕を誰かに掴まれた。驚いて振り返ると、そこにいたのは、牢屋で時を共に過ごした同胞達であった。
「――お前達か……」
ナタリーは、彼らとはあの時から――テフンに裏切られたときから、一度も口をきいていなかった。思わず気まずくなって目を逸らした。
「屋敷の奴らに見つかったら、殺されます」
奴隷の一人が口を開いた。
「奴ら、俺らが軍隊に参加する心算なの知ってるんです。それで、後々厄介だから今ここで殺しておこうってハラらしいです」
よく喋る同胞達を、ナタリーは呆気にとられながら見ていた。
「……お前ら、俺とは縁切ったんじゃなかったのか」
ナタリーは震える声で聞いた。大柄な男達がこちらを見つめている。顔を見合わせて苦笑いすると、一人が言った。
「いや、俺達、リーダーと、黒髪くんの会話聞いちゃっていたんです。ていうか、寝てたら急に二人とも喋り出したもんで」
「それで、あんたらの『目的』のこと聞いちゃって……あん時、あんたが無実だったってのも途中で知ったし……」
「それ聞いてたら、俺達もこの人達に協力したい……って思ったんで」
奴隷達は次々と意外な事実を口にした。懐かしい呼ばれ方に、ナタリーは思わず涙を流した。
「だから、俺らは軍に行くけど、あんたらは逃げてください、生き延びてください――『目的』のためにも」
そう言われて、ナタリーの脳裏にはテフンの顔が浮かんだ。ああ、そうだ。俺はこんなところで泣いてる場合じゃない……彼を、テンを探さなくては。
「ありがとう、――愛すべき同胞達よ」ナタリーは言った。後ろは振り返らない。前に進めなくなってしまう。そして、テフンを探した。
石の廊下を駆ける足が痛くなってくる。建物の倒壊は激しく、裸足で走るには危険すぎた。ああ、もう彼には会えないのだろうか?
「そこにいたかァ!」
その声とほぼ同時に、銃声が聞こえた。そのねっとりした声の主は、屋敷の主人だった。ライフル銃を持ち、肩で息をしている。――使用人達に見放されたようだ。
「奴隷の分際で、我ら貴族に楯突こうなどと……!」
――屋敷の奴らに見つかったら、殺されます――同胞の言葉が蘇る。ナタリーは真っ青になった。逃げなければ、殺される。けれど、テンが……。
「死ね、奴隷がああ!」
家主がライフルを構えた――と共に倒れた。頭から、血を流して。家主の背後には、血のついた瓦礫を握った少年が――テフンが立っていた。
「テン!」
ナタリーは叫んだ。彼がテフンのもとへ駆け寄ろうとしたとき、
「――来るなっ!」
テフンが怒鳴った。その言葉にナタリーは思わず足を止めた。なんでだよ――そう言いかけて、ナタリーは息をのんだ。テフンの、左膝から先がなくなっていた。
「じいさんから、種は貰ったんだな? そうしたら、それ持ってそのまま逃げろ。早……」そこまで言うとテフンはその場に倒れ込んだ。ナタリーはすぐに駆け寄った。
「なんで、何があった、これは、どういうことだ!」
途切れ途切れにナタリーは尋ねた。血塗れのテフンの手が、ナタリーの肩をとらえた。
「いいかナタ、俺が牢を出たとき、もう俺は足やられてたんだ。もし俺がお前と一緒に牢を出たら、お前、絶対、俺を助けようとして逃げ遅れるだろう。だから、お前と種を置いて逃げたんだ……それは謝る、けど、頼みがある」
息を切らし、ぎらついた目でテフンが言った。それを遮るようにナタリーが、
「もういい、もう喋るな、逃げよう」と泣きながら言った。しかし、テフンはナタリーの手を振りほどいて、続けた。
「俺はもう駄目だ、だからナタ、お前だけで逃げてくれ。お前ひとりだけなら、確実に生き残れる……」
「いやだ……テン、お前、『目的』はどうするんだよ!」
ナタリーはテフンの手を掴んだ。かすれ消えそうな声で、震えながらテフンが言った。
「お前が、やってくれ」
「――いやだ……『お前の』目的だろう!」
ナタリーが泣きながら言うと、テフンが鋭く睨みつけて叫んだ。
「俺が、一体どれだけの犠牲を今までに払ってきたと思っている? それらの流した血を無駄にしろと? 俺は、俺の目的のために屍の頂に立っている。いいか、もうこの運命からは逃れられないんだ。――もう俺は、この『目的』を果たすしかないんだ」
そして、最後に小さく笑って言った。
「……ナタ、お前、俺の目的に、協力してくれるって言っただろう?」
――ああ、あの夜……流星のあの日のことを、彼は憶えていてくれたのか……。ナタリーはか細いテフンの手を強く握り締めた。そして、涙を拭って言った。
「――わかった――」
そう言ってテフンを一度抱き締めると、立ち上がった。
「さようなら、テン」
「じゃあな、ナタ、――頼んだ……」
ふたりの少年は互いの名前を呼び、別れを告げた。最後に見たテフンの表情は、笑っているようにも見えた。
ごめんなさい、ありがとう、さようなら、さようなら、さようなら……。
ナタリーは、寒空の下の燃えさかる道を、息を切らせて泣きながら走っていた。
銀瑠璃の星が美しい夜であった。
「――美しい、花があるんだ」
その日、黒髪の少年は唐突に話を始めた。転寝をしていたナタリーははっと我に返り、彼の話に耳を傾けた。
「美しい、緋色の花なんだ……母さんが好きだった、母さんの母さんも好きだった花なんだ……。俺が本物を見たのは一度だけなんだが、その花畑は本当に美しかった。美しすぎて、幼かった俺は恐怖を覚えたくらいだ………真っ赤な花畑が地平線の彼方まで広がっていて、それは見るものすべてを圧倒させるほどに美しいんだ……――」
そうやって話すテフンの瞳は、幼子のように輝いていた。ナタリーはテフンのそんな表情を初めて見た。彼は続けた。
「あの恐ろしいほどの美しさは、見る者の心を洗う……邪心も自堕落さも、疚しいものすべて……だから、それがなくなれば、あの家主や人身売買なんかも、きっと……」
そこまで言って、テフンは口を噤んだ。ナタリーが彼に問いかけた。
「……お前の目的、って、もしかして……」
「――花を咲かせること。野原いっぱいに、だ」
そう言ってテフンは、我ながら少女趣味だな、と鼻で笑った。
「俺には、よくわかんねーな……」
ナタリーが言うと、テフンが軽く睨みつけた。
「ほんとに、きれいなもの見て心が洗われるとか、俺はあるとは思えないんだよね」
――お前がそう言うのなら、そうかもしれないけど。ナタリーは、そう言いかけてやめた。テフンがこちらをあまりいい顔で見ていないからであった。
「まぁ、俺の、目的だからな……他人になんて理解されなくていい……。俺は寝る」
そう言ってテフンは寝てしまった。
その「花」の会話はそれっきりで、労働量が急増してからはそんなことは一度も話しておらず、そして、そのまま別れてしまった。
ナタリーは、彼にもっとその「花」の話を聞いておくべきだったと思うのだった。
炭鉱町の大屋敷の火災から、十年の月日が経とうとしていた。
あれから、奴隷制度は廃止され、奴隷部隊も知らぬ間に解散されていた。解放軍に加わると言っていた同胞達の行方は知れない。悲しみは時間に押し流されたが、何かわだかまりが残っている気がする。
複雑な感情のまま、ナタリー青年は緋色の花畑の中に立っていた。
この花畑は、十年前に燃えた屋敷からそれほど遠くないところに、ナタリーがつくったものだった。――黒髪の『彼』の遺志を継いで。
見渡す限りの、真っ赤な花畑。膝まであるその花達をかき分けながら、ナタリーはとある場所へと出かけた。火事の後、灰燼に帰した屋敷である。
立派だった屋根・窓・装飾はすべて灰となり、黒く焼け焦げた壁が無惨に残っていた。脆くなった屋敷を蹴飛ばしつつ、彼は何かを探していた。
「――いた……」
呟いた彼の視線の先にいたのは、白く、小さくなった黒髪の少年であった。
「もともと、ちっこかったのになぁ……また小さくなっちまったな」
そう言って、テフンに付いた土埃を掃ってやった。
今やナタリーのつくったこの花畑は、奴隷制度の悲惨さを伝える記念碑のようなものとなっていた。この地であった出来事の記憶を、誰かに繋げ続けるための。
花畑の真ん中には、小さな墓標があった。ナタリーは、この花々が美しく咲いたら、そのことを誰よりも待っている誰かを其処に眠らせたかったのだ。そして今日この日、やっと「彼」を特等席に連れてくることが出来たのである。
骨壺に一本ずつ丁寧に骨を入れていきながら、ナタリーは言った。
「きれいだな、緋色の花……来てくれる人たちみんな、『きれいだね』って言って笑ってくれるんだよ……」
左足のパーツがいくつかないことに気づいた。ああ、きっとまだあの屋敷の中に……。ナタリーは唇を噛み締めると、骨壺の蓋を閉めた。
「なあテン、俺、前にお前の考えがわかんないって言ったよな……あれ、取り消せないかな? 今になって、それ、すごくよくわかる気がするからさ……なあ、テン…………!」ナタリーはそう言って骨壺を抱き締め、緋色の花畑の真ん中で泣いた。
この美しい花々が緋い色をしているのは、屋敷を焦がした炎の色と、そこで死んだ奴隷達の血の色が映ったからだ。
そんな話がその地の伝承となり、その詩は花畑の墓標にも刻まれた。